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滝廉太郎とキリスト教(その3)

2009/03/15 18:55

 

 

 大分市の県庁横の「遊歩公園」に滝(瀧)廉太郎氏の終焉の地の史蹟がある。1903(明治35)年11月24日東京を出立。大分に帰着後、大分町339番地(現在の大手町か?)の父母の元で療養する。そして、12月29日、「荒磯の波」を作曲。「聖公会」のブリベ司祭を時折訪ね、信仰上の交わりを結んだと考えられる。

 

 11歳年下の滝廉太郎氏の妹・安部とみさんが、後年、「兄を偲ぶ」というエッセイでブリベ氏とのことを次のように書いている。[北村清志編著、『滝廉太郎を偲ぶ』(1963年より)]

 

 「・・・あの頃のことは、はかない夢のようで、晩春の頃だったかと思うが、現在の大分市金池校で、先生方や父兄の方々に望まれて、自分の作曲その他をおきかせした事もあった。そんな時は必ず人力車の往復であった。当時の碩田橋、今の中央通り郵便局の南側に、三倉屋という材木問屋があり、その横を入るとブリベさんという米国(英国の間違いか?)の宣教師が居られた。クリスチャンの兄は時々伺って御話をきいたり、御馳走になったりして居た。ピアノがあったか覚えて居ないが、或いは此処だけで弾けるピアノであったかも知れない。時々コックさんがお料理や、お菓子を持って来て下さるので、母はせめてそれに似た物でも作って見ようと、兄の食事に気を配って居った。此のブリベさんのお宅にお年賀に出かけた時の姿は何年たっても忘れられぬおもかげである。

 真黒い髪を一寸分けて、黒紋付の羽織に仙台平のハカマをつけて、ニコニコしながら車上の人になった兄の美しさ。色の黒い私は、思わず、兄さんのように色が白かったらと、つくづくうらやましく思った。」

 

 亡くなる半年前の滝廉太郎氏の様子がリアルに迫ってくる。ブリベ師との深い心の交流が想像できる。ところで、妹さんの安部とみさんは、去年亡くなられた、ジャーナリストの筑紫哲也氏の祖母にあたるそうだ。

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滝廉太郎とキリスト教(その2)

2009/03/13 18:43

 

 

 大分市に遊歩公園(大分県庁横)があります。そこに、滝廉太郎氏の銅像がありますが、彼の「終焉の地」として知られています。亡くなる直前に通った、「聖公会」(イギリス国教会=立教大学や聖路加国際病院系列のキリスト教会)の宣教師・ブリベ師の住まいもこの近くにあったそうです。

 

 

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滝廉太郎とキリスト教(その1)

2009/03/12 19:15

 

 

ドイツから帰国後の滝廉太郎氏(1902年)

『音楽写真文庫Ⅵ、滝廉太郎』(音楽之友社、1961年)より

 

 「荒城の月」で有名な、音楽家・滝廉太郎氏は、「日本聖公会」(イギリス国教会)の信徒であったことはあまり知られていない。ドイツ留学中に病気になり、両親の住む大分に帰ったのは、1902(明治35)年の11 月下旬であった。翌年の6月、23歳10ヶ月で亡くなるのだが、その間、大分で、「聖公会」の英国人宣教師・ヘンリー・レオナルド・ブリベ(Henry Reonard Bleby.1864-1942)と交流があった。滝廉太郎氏の妹さんの安部とみさんによって紹介されている。

 

 ところで、「聖公会」にとって、今年は記念すべき年だ。日本プロテスタント最初の宣教師は、「聖公会」の米国人・C.M.ウィリアムズ師(1829-1910)だ。1859(安政6)年、30歳の時に来日、長崎で布教を始めてから、今年(2009年)が150年目の節目であるからだ。当時の日本は、開国したとはいえ、キリスト教禁制の法令は厳しく、布教は命がけであった。ウィリアムズ師は、50年間を日本で過ごし、立教大学の前身の私塾を起こした人でもある。ウィリアムズ師は、日本伝道に人を派遣するように英国に要請し、その結果、1869年1月23日(邦暦明治元年12月11日)、CMS宣教師として初めて長崎に上陸したのが英国人・G・エンソウ師夫妻であった。

 

 禁教下弾圧厳しい日本であったが、エンソウ師は伝道につとめ10名に洗礼を授けたという。しかし、日本伝道3年数カ月の心労と日本の気候で健康を害し、1872(明治5)年、英国に帰国する。1873(明治6)年2月に「キリスト教禁止令」が日本で解かれる直前のことである。帰国後、エンソウ師は、英国各地の教会を巡り、日本伝道の実情を語り、日本伝道に献身する人を求めたという。

 

 その後、CMSから多くの英国人宣教師が日本を訪れる。そのうちの1人が、滝廉太郎氏と交流のあったブリベ師である。ブリベ師は、1890(明治23)年に来日し、大分には1894(明治27)年に着任している。歴史的には、大分での「聖公会」の伝道の開始は、1887(明治20)年、熊本のJ.B.ブランドラム師によると記録にある。翌年の1888(明治21)年9月、大分の「聖公会」で、最初の受洗者式(藤田ユキさん・市川はるさん)が行われた。

 

 メソジスト教会のウェンライト博士が大分に来たのが1888(明治21)年、大分を去ったのが1890(明治23)年だから、ほとんど時を同じくして、「聖公会」の大分伝道も始まったということだ。(続く・・・)

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CMS=Church Mission Society(Website: www.cms-uk.org

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ウェンライト博士と大分中学校(その11)

2009/03/11 21:42

 

 1940(昭和15)年発行

 

1890(明治23)年、2年の任期を終え、ウェンライト博士が大分を去る日が遂に来た。教会の人々と、博士夫妻が関係していた大分中学校と師範学校の代表者たちが、大分市の「かんたん港」にある旅館に集まり、畳の上に大きな輪を描いて座っていた。

 大分中学校の鎌田氏の後任の校長は、ウェンライト氏によるキリスト教の布教を快く思ってはいなかった。中学校の生徒達への影響を心配していたからだ。大分県からの圧力もあったようだ。博士の別れの言葉を紹介する。

 

 「私が御国(日本)のために十分に尽くすためには、なお十二分な勉強をしなければなりません。然るにその勉強は、大分にいては遺憾ながら、思う様にはできません。私は神戸に行って、更に勉強して、層一層御国のために尽くしたいと思います。私が大分を去るのは、大分を嫌ってではありません。あくまで大分は忘れません。終生大分の事は考えます。」

 

 青年信徒達は、一斉に頭を下げ、別れを惜しむ手を振り"God be with you, till we meet again!"と、博士が教えた言葉でお別れしたという。

 

 その後、博士が米国へ帰国する1938(昭和13)年まで、ウェンライト博士と大分中学校の学生や大分教会とのつながりは途切れることはなかった。

 

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ウェンライト博士と大分中学校(その10)

2009/03/10 12:48

 

 

 『創立50周年大分県大分中学校』[大分県立大分中学校発行、1935(昭和10)年より]

―1894(明治27)年に大分市上野丘に移転、その後の大分中学校の航空写真、1931(昭和6)年撮影ー

 

 1885(明治18)年の大分中学校1期生の入学数は103名、1889(明治22)年の1期生の卒業生は3名である、と記録に残っている。他の100名はどうなったのだろう。当時のカリキュラムを見て驚いた。授業時間が初等中学科が週31時間、高等中学科が週29時間になっており、語学の教育に時間が多く当てられていたことだ。初等中学科1年生の場合、「和漢文7時間、英語7時間」となっている。後年、ウェンライト博士が、「日本文化の50年」〔1937(昭和12)年5月~6月の『日本メソヂスト時報』に掲載された講演録〕の中で、大分中学校での教育の質の高さについて次のように述べている箇所がある。ウェンライト博士の原文のままです。

 

 「当時、大分に於ける私共を印象したものが特に二つありました。第一に中学の語学研究でありました。私は英語の教師でした。講読の教師もいました。漢学の先生もいました。勿論、和文の先生もいました。そういう訳で、学生は言葉の勉強に多くの時を用いました。而してこれは真の教育であります。真の教育とは、我々の動物的衝動を精神的傾向へと服従させる事であります。言葉の勉強はこの目的に達するによい方法であります。言い換えて申しますと、科学の研究は自然界に於て我々自己の中に自由を与えるのでありますが、言葉の研究は我々自己の中に自由を与えます。日本語で英語のcivilizationを文明、即ち、『文学の光明』と申すのをいつも面白く思っています。」

 

 う~ん・・・その通りですね。言葉を通して、人間は思考するのであり、深くまた自由に思考するためには、いろいろな言葉を知らなくてはならないでしょう。そのための読書も必要です。この講演から、70年経ちましたが、日本の教育問題の議論に欠けていることが、ウェンライト博士の言葉の中に、あるような気がします。(続く・・・)

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ウェンライト博士と大分中学校(その9)

2009/03/09 21:45

 

『ウェンライト博士伝』(教文館、1940年発行)より

 

 『ウェンライト博士伝』によると、大分市荷揚町にあった、元陸軍駐在所があった建物を借り受けて、博士の住宅とし、併せて、「大分講義所」として開設したという。その後、教会堂が現在の所(大分市舞鶴町?)に新築され、この建物はもとの持ち主に帰ったという。この建物は、1940年までには取り壊されおり、その後に「津田」という人の医院が開かれていたという。現在はどうなっているのだろうか?(続く・・・)

 

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ウェンライト博士と大分中学校(その8)-久留島武彦氏との交流-

2009/03/08 19:25

 

 

 現在、ウェンライト博士によって開設されたメソヂスト教会「大分講義所」は、日本キリスト教団「大分教会」になっている。創立は、1888年となっているから、年代的にピッタリだ。現在は、大分市舞鶴町にあるが、当時も、この場所に、「大分講義所」があったのかは、定かではない。

 『日本メソジスト時報』2303号[1936(昭和11)年6月19日号]に、1936(昭和11)年5月13日に「大分教会」で開かれた、「南メソヂスト教会日本宣教50年記念大会」での久留島武彦氏による講演録、「石に打たれるウェンライト博士」が掲載されている。

 1888-1889(明治21-22)年頃は、大分では、キリスト教徒に対する嫌がらせが多く、ある夜、暴徒が石を投げ、無残にも破壊された表口のところに、博士夫妻が立っていたという。久留島少年は、枕元に置いていた先祖伝来の刀を持ち出し、もし暴徒が乱入してきたら、先生を守って、暴徒を斬り自らも死のうと思ったらしい。
 久留島氏は、『新約聖書』の「使徒言行録」7章の暴徒のために、石で打たれるステパノが、『主よ、この罪を彼らに負わせないで下さい』と言いながら死んでいく、その後の奇跡を例に挙げながら、迫害の猛烈さに正比例して、ウェンライト博士の周囲の青少年たちの信仰心は強くなっていったことを、「石を投じて大分人は、ウェンライト博士の中にキリスト教を発見し、石を投ぜられてウェンライト博士は一生を投げ込む価値を日本人の中に発見せられたのである。」と、その事件から50年経った時に述べている。(続く…)

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ウェンライト博士と大分中学校(その7)-久留島武彦氏との交流-

2009/03/08 06:04

 

 

大分県先哲図書(大分県立先哲資料館編集・大分県教育委員会発行、2004年)、後藤惣一著・『久留島武彦』[普及版]の表紙

 

 久留島武彦氏(1874-1960)は、大分県玖珠出身で、明治から昭和にかけて「子どもの膝の前のともだち」になることを目指して全国を口演行脚し、各地に児童文化活動を萌芽させた人として有名だ。久留島少年は、1887(明治20)年4月大分中学校に入学、下宿生活を始めた。彼の大分中学における生活は愉快なものであった。英語が得意で、ウェンライト博士が大分中学に赴任後は、英語の勉強にますます力を入れた。久留島少年の夢は、アメリカの牧畜に関する研究で、「津田梅子氏」(津田塾大学の創設者)の父「津田仙氏」(メソジスト教会の信者)による学農社出版の雑誌が愛読誌であった。アメリカの牧畜の技術を学ぶためには、英語はどうしても必要であった。久留島少年は当時14歳、絹の衣服を着た温厚な貴公子であったという。(「ウェンライト博士と大分中学校(その6)の写真・最前列の右端の少年か?)その牧畜志願の夢を彼が語るたび、ウェンライト博士は、「羊を飼うよりも、人を牧する人になれ」と諭したという。

 久留島少年が、ウェンライト夫妻の和風の家の方で開かれるバイブル・クラスや日曜学校などに参加するたびに、掃除が行き届いていない部屋の様子にたまらず、早めに来て掃除をした。また、大分の町に不慣れなマーガレット夫人のために、買い物も手伝った。その後、久留島少年は、博士の家に下宿することになり、博士夫婦を助け、自らも英語も学び、博士宅から大分中学校へ通った。夫妻は、久留島少年を「マイ・ボーイ」と呼び、絆はますます深まっていくのである。(続く…)

 

 

 

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ウェンライト博士と大分中学校(その6)

2009/03/06 12:40

 

『ウェンライト博士伝』(教文館、1940年発行)より

1888~1889年頃の開設当時の「大分講義所」、ウェンライト博士夫妻と共に将来の有力な日本メソジスト教役者、将来の著名な童話家・久留島武彦氏、将来のメソジスト教会監督・釘宮辰生氏などが写っている。

 

 ウェンライト博士が大分で先ず困ったことは住宅問題であった。前任のウォータース宣教師の家に落ち着いたのだが、彼は、独身で人前で裸体でいることも少しも気にしなかったので、2階4間の小さな1軒屋で大丈夫だった。しかし、夏に向かう中で、物珍しい2人の生活を、無遠慮に群がり見る人々の目に、ウェンライト夫妻は隠れ様もなかった。

 その頃、「公教会」(現在のカトリック教会)の信者である、大分中学の学生・井川耕太郎氏*の持ち家である、元陸軍駐在所になっていた半洋風平屋1棟と和風平屋1棟とからなる家を、伝道宣教部で借り、半洋風の建物に椅子をそろえ会堂風にし、「大分メソジスト教会講義所」とした。

 ウェンライト博士は、昼間は大分中学で1週に21時間英語を教え、夫人も師範学校で、音楽と英語を1週に12時間教えていたという。しかし、彼らの活動の最も重要な部分は、「大分講義所」での活動であった。博士は毎夜、夜学を開き、5ヶ月を1期として、平信徒を伝道者に導く聖書学校を開いた。後に出席生徒が平均50名にもなり、その中には、1期生の「釘宮辰生氏」2期生の「柳原直人氏」が、後に日本メソジスト教会監督になっていった。

 夫人もまた午後少女のために私塾を開いていたが、小学校教師たちが、「私塾に通うものは退学させる」と脅したため、出席者はいなくなったが、編み物・洋裁・料理・家事などのお弟子が多数来るようになり、夜は女性のためのバイブル・クラスを開いたという。

 お2人の、大分での滞在は2年間であったというが、大きな足跡を残したことは事実であろう。(続く・・・)

 

*井川耕太郎氏らしき人物が、『よみがえる明治の宣教師・ハルプ神父の生涯』(廣瀬敦子著、2004年、サンパウロ発行)の第3章に登場する。そこの箇所を少し紹介しよう。ハルブ神父は1889(明治22)年に大分教会に赴任するのだが、ハルブ神父が、1889(明治22)年6月7日付で、パリの神父に宛てた手紙の中で、「(1888年頃の前任者・べレール神父の頃から)大分にはすでに30人の(カトリック)の信者がいます。・・・(大分)中学校の学生が、ここにフランス語の勉強に来ています。私(ハルブ神父)は日本語を学ぶのに彼の日本語を活用しています。この青年はとてもいい人で、大分の信者は、みんないい人だと思います。・・・」と大分のカトリック教会の様子を知らせている。

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ウェンライト博士と大分中学校(その5)

2009/03/05 19:18

 

1900年頃の大分市竹町の風景

『音楽写真文庫Ⅵ滝廉太郎』(音楽之友社、1961年発行より)

 

 ウェンライト夫妻が歩いたであろう大分の街並み(中心地)の写真である。ウェンライト博士を呼び寄せた、鎌田校長(後の慶応義塾塾長)は、既に1887(明治20)年6月に、大分中学を去り、大分県師範学校(現大分大学教育福祉科学部)の校長となっていた。ウェンライト博士が大分に来た時は、慶応義塾出身の衣斐鉸太郎氏が校長となっていた。 

 しかし、『ウェンライト博士伝』(19頁)によると、鎌田校長は、若いが以前教育界の重鎮であり、変わらない厚情を以って、ウェンライト博士を迎え、鎌田夫妻が歓迎の夕食を準備したという。前掲書の中で、保守的な大分の人々の中にあって、鎌田氏とウェンライト博士はまさにぶっ飛んでいたのではないだろうか?少し紹介しよう。

 

 「悪く言えば頑冥な当時の多くの大分町民等の中に在って、諒々として和やかに、或は選挙という事を教え、または詩文を引用して、婦人を尊重する事などを語り、青年を訓化する事あたかも荒野に水を導いて、これを灌漑せんと試みるが如き鎌田校長の考は、一般の水準とは、はるかに隔たったものであったが、この鎌田氏の教育方針とウェンライト博士のお考えとは、一脈相通ずるものがあり、後に至っては、両者肝膽相照らすものあるに至った。」

 

 ウェンライト博士が、大分でどのような教育をしていったのか、興味がわく。(続く…)

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